アダルトチルドレン

アダルトチルドレンというワードを目にしました。

子どもの頃の家庭環境や親との関係でトラウマを抱え、大人になってもその影響を感じている状態を指す概念だそうです。

特徴として、過度な自己責任や自己否定、自己肯定感や自尊心が低いなどがあるらしいです。

病気ではないようですが、私も当てはまると思いました。

そしてアダルトチルドレンと呼ばれる人達には、多くの場合反抗期がなかったと言われているそうです。

まさに私でした。

親が反抗を許さなかったのです。

少しでも反抗すれば家を追い出される恐怖がありました。

他に行くところも、反抗する勇気もない私は親に従うしか無かったのです。

もちろん反抗されたい親なんていないでしょう。

ただ、大多数の親は大人になる第一歩だと反抗期を認識してくれています。

私の親は違いました。

そのため、私は大人になりきれず、親の支配にまだがんじがらめにされたままです。

親離れできていないのかと言われたらそれは違います。

親はまだ子離れできていないことが分かります。

離れていても、私には親の支配の影が付きまといます。

心身ともに自立するにはどうすれば良いのか、分かりません。

独特で支配的な親の元に産まれた私には、どうやったら支配から抜け出せるか、分からないのです。

いつかわかる時が来るのでしょうか。

ただすべてのアダルトチルドレンへ言えるのは

「私たちは悪くない」

ということです。

今の状況は自分のせいでもなんでもない、不運な状況が続いただけ。

決して自分を責めないでください。

私も自分を責めた時期がありました。

でも今は違う。

どれだけ自分を認めてあげるか、それがアダルトチルドレン脱却の方法なのかもしれませんね。

電話

定期的に親に電話をするのがなんとなく強制的になっています。

しなくても良い、したくないのに、しなければいけないと思うのです。

一種の強迫観念です。

私の話など一切聞かない母との電話は苦痛でしかありません。

母は私の近況を知りたい訳ではなく、自分の近況を知って欲しいのです。

昔、地元で私が通っていた心療内科の先生が、1度だけ母に会ったことがありました。

一言二言言葉を交わしたでしょうか。

後日先生が、

「あのお母さんだったら〇さん(私のこと)苦労してこられたでしょう?」

と、私に言ったのです。

さすがプロだと思いました。

一言二言で母の性格を見抜いてしまったのです。

そういえば、高校の担任の先生も母の普通では無いところを見抜いていました。

その話をしたら、夫も最初から分かったそうです。

誰から見ても普通では無い母は、私をどれだけ不快にさせているのか知りません。

その母と長年連れ添っている父も、母に洗脳されているのか、普通に見えて普通では無いのかもしれません。

あまり普通という言葉は使いたくありませんが、ここではあえて使いました。

私の両親はあきらかに他の人とは違いますから。

もちろん、十人十色、色々な人がいるのは分かります。

でも、それで被害を受けている娘がいる以上、私の両親は人と違うのです。

今は地元を離れられて安心しています。

地元は大好きだし、帰りたいです。

でも両親の側にはいたくない。

わがままですが、今はこの生活が最高に幸せなのです。

私が地元に戻りたくない理由

私のいとこは3人います。

父の兄であるおじの子供です。

遠方でなかなか会うことはできませんが、実家にはたまに連絡が来ます。

ある日、おじとおばが最近軽度の認知症を発症していると聞きました。

3人の子供のうち、長女はひきこもりで、仕事もせず実家にいます。

長男は結婚し、子供もいて、近くに住んでいます。

次男は、今は遠方に暮らしていて、帰ってくる気配はありません。

そう考えた時、1番頼りになるであろう長男が両親と長女である姉の面倒を見ることになるでしょう。

それを聞いて、私は「長男くん、大変だね」と母に言いました。

次の母の返事に私は言葉を失いました。

「子供は親の面倒を見るのが当然なんだから仕方ないでしょ」

私はひとりっ子で、もちろん両親の面倒を見るつもりでいました。

しかし、それを聞いて決心がゆらぎました。

あたりまえ?育ててやったんだから、面倒見るのが当たり前なの?

私の友人や、会社の人などに話を聞いた時は全員、「子供には絶対に面倒をかけたくない」と言っていたのを思い出しました。

親は子供の幸せを願うのだと勝手に思っていましたが、私の母はどうやら違うようです。

父は私には面倒をかけたくないと思ってくれているようで安心しましたが、父より母の方に決定権があるので、母は父の言うことなど聞かないでしょう。

薄情ですが、私が地元に戻りたくないのは両親がいるからです。

近くにいれば頼られるのは目に見えていますし、私の生活にも干渉してくるでしょう。

私は今の生活が気に入っています。

それを壊されたくない。

わがままは分かっています。

でも私の人生は私だけのものです。

今は両親元気ですが、そのうち、介護が必要になる時もあるかもしれません。

その時私はどうするのか、どうしたいのか、まだ答えは出ないままです。

子供をつくらない選択

私たち夫婦は子供をつくらない選択をしました。

理由は色々あります。

でもまず、子供を育てるには高齢なことが理由のひとつです。

子供を産み、育てるには歳が上になりすぎました。

夫も体力に自信がないとのこと。

私も強迫性障害を患った身、何より子供を優先させる生活は、おそらく自分が自分でなくなると思いました。

そして、私も夫も2度目の結婚です。

私は元旦那との間に子供はいませんでしたが、夫には元嫁との間に子供が2人います。

2人とも成人し、まぁ、色々複雑な家庭なので絶縁状態ですが。

そのため、また子育てをする自信がないとのことでした。

誰も親になる自信がある人はいません。

ただ、夫が子育てする自信がないと言った時、私は正直安心しました。

夫と結婚した時、子供をつくるべきか迷ったのは本当です。

しかし、それはすべて親のため、世間体のためでした。

今思えば、それでは子供をつくる資格はないです。

何より今、2人の生活で楽しいしうまくいっているのに、この生活を壊すのが怖かったのです。

迷って話し合いましたが、子なしを選び、私の親にも言いました。

父は相当ガッカリしていましたし、未だに孫を諦めていません。

子供ができたという、妊娠報告を心待ちにしています。

でも私にはその親孝行は一生できません。

今まで親の言いなりで反抗もせず、良い子でいましたが、今回は親不孝です。

でも私の人生は私だけのものだから、私は私の生きたいように生きます。

時には迷ったり後悔したりしながら、私は私と生きていきます。

大人

友人が10代で将来の夢を語る中、私は将来がまったく見えない青春時代をすごしました。

私は他人より大人になるのがだいぶ遅かったのです。

それは、自分が何者なのかがきちんと分かっていなかったから。

何が好きで、何が嫌いで、それがすべて母の判断によるもので、自分ではまったく分からなかったのです。

私が好きなものは母が決める。

嫌いなものも母が決める。

それは私の意見ではなく、すでに母の意見だということすら私には分かりませんでした。

しかし、その事に気付いてからは、

「早く自立したい」

そればかりが私を支配しました。

しかし、そもそも母は私の自立を許しませんでした。

結婚するまでは実家にいるのが「普通」、そう言われ育てられました。

結果30歳を過ぎるまで、私は実家暮らしを余儀なくされることになります。

家族はこういうもの、貴方はこういう人間という偏った価値観を植え付けられたまま、ずっと生活していたのです。

おかしいことには気付いていました。

ただ、何が正しいのか分からないまま、この状況を打破するには、私は結婚するしかないと思ったのです。

しかし、最初の結婚はただ家を出たかっただけで、上手くいくはずもなく、そもそもその結婚自体、支配者が変わっただけでした。

楽しい結婚生活を夢見ていた私は、いつの間にか痩せ細った自分を見て、愕然としました。

私は何をしているのだろう…。

涙が溢れました。

元夫との将来は、正直最初から想像がつかなかったのです。

2人で老後の生活をするなんて、考えることすら難しいことでした。

私は元夫を愛してはいなかったのです。

結婚生活は2年という短さで幕を閉じました。

私はその短い結婚生活で、元夫に料理を褒めてもらったこともお礼を言われたことも一度もありません。

実家もそうだし、結婚はそういうものだと思っていました。

2度目の結婚は正直、怖かったです。

また同じことを繰り返すのではないか、私は誰かと一緒に暮らせるのか。

しかし、心配とは裏腹に生活はとても楽しいものでした。

夫は私の料理をいつも最大限に褒めてくれます。

そして、「今日もありがとう」と毎晩お礼を言ってくれるのです。

それがたまらなく幸せなのです。

私にこんな幸せが訪れるとは、昔は考えられませんでした。

今は夫との将来をすぐに想い描くことができます。

この人と幸せになろう、この人を幸せにして、私も幸せになるんだ。

それはずっと昔からそう決まっていたみたいな、そんな感覚です。

私はようやく自分を見つけ、そしていつの間にか、自分の好き嫌いがきちんと分かるようになりました。

夢もあります。

だから、私は頑張れる。

これからも私は夫と愛猫と2人と1匹で幸せを築いていきます。

知ることと知らないこと

はじめて強迫性障害と診断されたのはまだ実家で暮らしている時でした。


母も一緒に病院へ行き、先生に水道代がバカ高いと私が症状を言うより前にまくし立てました。


寡黙な先生が言った
「強迫性障害ですね」
の言葉は今でも忘れられません。


今は、うつ病や、ADHDなどの方に優しい世の中だとは思います。


でも昔は違いました。


ネット環境もそんなに普及しておらず、自分で調べることも難しかった世の中。


強迫性障害なんて、未知の言葉は自分ですら受け入れることは難しかったです。


ただ、この辛い症状に病名があることに何故か安心して、涙した記憶があります。


それから20年ほどずっと病院には通っています。


夫の転勤で地元を離れ、今いる土地でも通院していることは両親には伝えていたし、分かっていると思っていました。


しかし、ある日父に電話で言われたことに衝撃を受けました。


今私は、甲状腺の病院にしか通っていないことになっていたのです。


あんなに辛い思いをしていた、強迫性障害がないことになっていました。


治ったとでも思っているのでしょうか。


ちなみに両親は認知症ではありません。


おそらく両親の中で、強迫性障害なんて名前も覚えられない未知の病はなかったことにしたかったんだと思います。


正直症状を話しても分かって貰えないことは分かっているので、そのまま、両親には話しを合わせています。


分かってもらおうとは思いませんが、私が病院に通っていることは知っていて欲しかった。


でも今は私の強迫性障害が、両親の中で消えている分、何も話さずに済むので逆に楽です。


病気の事は自分にしか分からないから、誰にも言わない。


そう思って生きてきました。


今は夫が最大の味方で、最良のパートナーなので、すべてを打ち明けました。


夫は知る努力をしてくれています。


だから、とても気持ちが楽になりました。


今のこの生活がとても好きです。

メイク

私の母はメイクをしません。


それどころか、化粧水や乳液もつけないし、もちろん日焼け止めもつけないです。


洗顔なんてボディータオルで石鹸でします。


それで未だにシミやシワがないのは凄いけど、肌はごわごわ。


逆に祖母は、家にいる時でもしっかりメイクをする人でした。


お手入れもしっかりしていたので、80代でも肌はツヤツヤでした。


私はと言うと、母がメイクをしたら一緒に食事をしないというので、年頃になってもメイクはできませんでしたし、メイクは悪いことだとさえ思っていました。


化粧水なんて贅沢品だと思われていたので、クリームのみドラッグストアで購入していました。


それでもまだ肌が綺麗だったのは若かったからです。


今はあの頃からもっとケアしたかったと思います。


ネットがまだそんなに普及していない、私の青春時代は、どんなことが自分の肌に良いのか、メイクはどんなものが良いのか調べる術がなかったのです。


ただ、母に言われるまま、メイクできずにいました。


子育ては、多少洗脳だと思います。


特に母に支配されていた私は、周りの女子が普通にしているメイクをしたくてもできませんでした。

周りの友人が10代で覚えることを私は家を出る30代までできなかったのです。


今になって、スキンケアには力を入れるようになりましたが、やはり若いうちからきちんとしておきたかったなと最近よく思うのです。


何事も継続です。


今は逆に情報が溢れすぎていて何が自分の肌に合っているのか試行錯誤はしていますが、それはそれで楽しいのです。


女性って面倒だけど楽しい。


今はそう思えます。

自分軸

嫌いな自分も受け入れる。

日々の生活の中で、自分の軸を見つけるのにおそらく人生の大半を使ってしまいました。

自分に合う合わないや、向き不向きを見分けることが私には難しかったのです。

好きや嫌いも昔は親に決められていました。

だから、自分が何が好きなのかなんて分からなかったし、分からなくても生きていけたのです。

親が良いといえば良かったし、悪いと言えば悪かった。

人に支配されるのが楽で、親に支配されていた自分にとって、親から解放されてようやく自分を見つけることができました。

自分の意外な部分も見つけられたり、楽しい発見も多いです。

人生には選択がつきものだけど、その中でも様々な選択肢を選べるようになってきました。

それは同時に大変だし難しいです。

でも私は自由です。

10代や20代で、しっかり自分軸を持っている人が羨ましくて、尊敬していたけど、私は歩みが遅いだけでした。

今はしっかり、自分軸はあります。

好きなものを好きと言える自分が誇らしい。

この歳になってもまだまだ未熟な私だけど、これから磨いていってあげたいと思います。