低迷期の乗り越え方

低迷期だなと感じる時が定期的にあります。


何をやっても上手くいかず、小さなことでイライラしてしまう。


そんな自分に更に嫌気がさします。


そういう時は心を無にします。


何も考えません。


仕事の時ならただやるべき事を淡々とこなし、休みの日なら頭をからっぽにして、何もしません。


何も考えず、ただ、ぼーっとする時間を作ります。


一見無駄に見えるこの行為こそ、前に進むためのステップなのです。


心を静かに、穏やかに。


これは実はとても難しいことで、どうしても雑念が入り色々な事を考えてしまいます。


でも強制的に、シャットダウンします。


そういう時は、昔の嫌なことや失敗を思い出して1人自己嫌悪に陥るから、良い事無いのです。


分かっていても考えてしまうなら、何か好きな事をします。


私なら、映画を見たり、本を読んだりです。


集中すると、雑念は消えます。


映画や本も難しいものではなく、ゆるく見れるものを選びます。


少し現実逃避すると、頭がすっきりしているのです。


強迫性障害の症状が色濃く出てくると、それもできない時があります。


でも無理にでも頭の雑念を消す。


難しいですが、これが私の前に進むための下準備です。

家事

家事分担と言いますが、適材適所があると思います。


うちは私が扶養内パートで楽させてもらっている分、家事はすべて私がしています。


私が家事をしっかりしたいタイプだし、家にいるのが多い私がやる方が効率が良いからです。


かといって夫は何もしないかというと、そうではなくて、むしろ率先してやりたいタイプ。


私は、自分なりの家事のやり方やペースがあるのでできれば口出しはしてほしくないし、できれば自分でやりたいです。


それでも忙しい時は夫に掃除を頼んだりします。
その時は喜んでやってくれるし、日々の私の家事にも口出しせず、感謝してくれます。


それが嬉しい。


夫もひとり暮らしが長かったので家事は全般できますし、おそらく自分のやり方もあるはずですが私に任せてくれてます。


私は、仕事はフルタイムはもう無理だと思っています。


メンタルでやられてしまうから。


その分夫はしっかり働いてくれます。


だから私もしっかり家を守る。


色んな夫婦がいると思いますがうちはこれで上手くいってます。


昔、フルタイムで働いていた時は別に家事なんてしっかりやっていなかったし、やらなくても平気でした。


夫はそれでも文句は言わなかったです。


ただ、だんだん家時間が好きになった私は、忙しさで家が荒れていくのが嫌になりました。


その頃です、強迫性障害の症状が酷くなって、病院で抑うつと診断されたのは。


何事も完璧でないと許せない性格が災いして、仕事も家事も中途半端な自分が嫌になりました。


ただ、そこから仕事を辞め、1年ほどゆっくり休み、どうにか今は普通の生活ができるレベルになっています。


それでも時々辛い時はありますが。


ただ、昔一切やらないし、できなかった家事が今は好きなので、仕事より家事に重きを置いています。


生活できるレベルのお金があれば、あとは生活を充実させたいのです。


かといって、ずっと家にいても気が滅入ってしまいそうなので、週3日の6時間程度のパートがちょうど良いです。


夫との時間も大好きですが、1人時間も好き。


今は少しだけ、完璧じゃなくても大丈夫、と思えるようになりました。


真面目で完璧を求める人が、心の病にかかりやすいと言います。


私は真面目でもないし完璧でないとダメなんて思ったことはなかったはずでした。


でも自分で自分を知らぬ間に苦しめていたのですね。


今は平日頑張った分、週末はどれだけ自分を甘やかすか考えています。


自分を労いながら、ゆるゆる生きていきます。

人生の協力者

この前、夫にブログを始めたことを話しました。

興味があったようなので

「見る?」

と聞いてみると

「いや、いい」

とのこと。

最初はあまり興味無いのかなと思ったのですが、

「赤裸々に書いてるんでしょ?」

と言ってきました。

そこで理解しました。

夫は、私だけの居場所を守ってくれたのです。

私が誰の目も気にすることなく、心情を吐露できるのはブログだと分かっての発言でした。

正直夫には見られても全然良いです。

でも気を使ってくれたのが嬉しくて、しばらくは1人でブログは楽しむことにします。

昔は強迫性障害は恥ずかしいことで、誰にも言えませんでした。

それこそ同居していた親にも言えなかったです。

でも今は強力な協力者がいます。

夫に分かってもらえればそれだけで心強いです。

強迫性障害の方の多くは、強迫観念からくる強迫行為を恥ずかしいと思っています。

私がまさにそうです。

だから隠すために必死でした。

でも一緒に暮らす夫にまで隠そうとするのは無理でした。

今は夫の支えがあって生活がとても楽です。

信頼できる協力者を得る事も、病気と付き合っていく方法だと私は思います。

大丈夫な世の中

ストレス社会の中で生き抜いていくには私は弱すぎます。


そのための自己防衛方法として、私はフルタイムではなく扶養内で働くことを決めました。


働き方を選べない方もいる中で有難いと思っています。


それでも、


「なぜフルタイムで働かないの?暇じゃないの?」


「子供がいないならフルタイムで働けるうちは働くべき!」


など、さも私をすべて知っているかのようにいらない助言をする人たちもいます。


正直しんどいですが、笑ってやり過ごしています。


否定も肯定も、説明するにも絶対分かってくれない人種だからです。


親しい人ならきちんと説明をしますし、分かってもらおうとはしますが。


しかし、時に困る質問があります。


それが「大丈夫?」


例えば体調が悪く会社を休んでしまった時の次の日など、親しくもない人に言われると正直困ります。


何を大丈夫と聞いているのか…


体調は正直大丈夫ではないです。


でもそう答えると詳しく説明しなければいけません。


それはしんどいし、別に上っ面の「大丈夫?」に真剣に答えることもないと思うので、大丈夫じゃないけど、何が大丈夫なのか分からないけど「大丈夫です」と答えます。


それがなんだか嘘を付いているみたいで嫌なのです。


かといって、いざこざは嫌なので、ただ平和にやり過ごします。


「大丈夫?」


誰かに言う時は自分も気をつけたいです。

私はわたしと生きていく

本当は周りからの心無い言葉や、行動に一喜一憂するのではなく、めげない強い心を持ちたいです。


でもいつからか、他人の言動に左右されすぎて、疲れてボロボロになってしまう自分がいることに気付きました。


だれも心の病気になんてなりたくないです。


それでも突然やってくる心の不調は、原因も人それぞれだし、病院へ行っても治るか治らないかわかりません。


私は20年強迫性障害を患っていますが、正直完全に治ることはないとおもっています。


今の生活は本当に穏やかで、幸せなものです。


それなのに、強迫性障害の症状は時に色濃く出てきて、私を痛めつけます。


この歳になって、はじめて強迫性障害で人に頼りました。


今までは自分ひとりでどうにかしなければ、周りを巻き込んではいけないと思い込んでいたのです。


頼る決心をさせてくれた夫には感謝してもしきれません。


私の無駄とも思える確認行為に付き合ってくれ、私は本当に苦行から解放されたのです。


時には誰かに頼ることも大事なのだと学びました。


ただ、それは自分が本当に心から信頼を寄せている人に限ります。


誰かれかまわず、自分の症状を言っても理解してくれる人は正直いません。


陰でなにか言われるか、薄っぺらい同情をされるかでしょう。


私は誰にも同情はされたくないです。


病気も含めて、自分の個性だから、それを可哀想なんて親しくもない人に思って欲しくない。


だから、私は周りとは極力距離をとります。


私が覚えた自己防衛のひとつです。


私はひとりで生きている訳ではないですが、薄っぺらい人間関係はいらないと思っています。


冷たいようですが、それが私です。


私はわたしと生きていくのです。

メイク

私の母はメイクをしません。


それどころか、化粧水や乳液もつけないし、もちろん日焼け止めもつけないです。


洗顔なんてボディータオルで石鹸でします。


それで未だにシミやシワがないのは凄いけど、肌はごわごわ。


逆に祖母は、家にいる時でもしっかりメイクをする人でした。


お手入れもしっかりしていたので、80代でも肌はツヤツヤでした。


私はと言うと、母がメイクをしたら一緒に食事をしないというので、年頃になってもメイクはできませんでしたし、メイクは悪いことだとさえ思っていました。


化粧水なんて贅沢品だと思われていたので、クリームのみドラッグストアで購入していました。


それでもまだ肌が綺麗だったのは若かったからです。


今はあの頃からもっとケアしたかったと思います。


ネットがまだそんなに普及していない、私の青春時代は、どんなことが自分の肌に良いのか、メイクはどんなものが良いのか調べる術がなかったのです。


ただ、母に言われるまま、メイクできずにいました。


子育ては、多少洗脳だと思います。


特に母に支配されていた私は、周りの女子が普通にしているメイクをしたくてもできませんでした。

周りの友人が10代で覚えることを私は家を出る30代までできなかったのです。


今になって、スキンケアには力を入れるようになりましたが、やはり若いうちからきちんとしておきたかったなと最近よく思うのです。


何事も継続です。


今は逆に情報が溢れすぎていて何が自分の肌に合っているのか試行錯誤はしていますが、それはそれで楽しいのです。


女性って面倒だけど楽しい。


今はそう思えます。

自分軸

嫌いな自分も受け入れる。

日々の生活の中で、自分の軸を見つけるのにおそらく人生の大半を使ってしまいました。

自分に合う合わないや、向き不向きを見分けることが私には難しかったのです。

好きや嫌いも昔は親に決められていました。

だから、自分が何が好きなのかなんて分からなかったし、分からなくても生きていけたのです。

親が良いといえば良かったし、悪いと言えば悪かった。

人に支配されるのが楽で、親に支配されていた自分にとって、親から解放されてようやく自分を見つけることができました。

自分の意外な部分も見つけられたり、楽しい発見も多いです。

人生には選択がつきものだけど、その中でも様々な選択肢を選べるようになってきました。

それは同時に大変だし難しいです。

でも私は自由です。

10代や20代で、しっかり自分軸を持っている人が羨ましくて、尊敬していたけど、私は歩みが遅いだけでした。

今はしっかり、自分軸はあります。

好きなものを好きと言える自分が誇らしい。

この歳になってもまだまだ未熟な私だけど、これから磨いていってあげたいと思います。

猫とごはん

人生を変える出会いは、そう何度もあるものではありません。


人との出会いは多々あれど、それが良い出会いか悪い出会いかは、後々分かるもので、出会ったその時に分かるものはなかなかないです。


ただ、私にはその出会いは運命でした。

あの日、私は小さな生命に出会いました。


片手にすっぽりおさまる小さな生命は、しっかりと鼓動を刻んでいて、その小さな仔猫に出会った時、感じたことのない感情が芽生えました。


私はこの子を守り、この子と共に生きよう、と。


猫を飼うのははじめてのことで、最初は手探りでしたが、色々調べて、どうすればこの子が幸せか、どうすれば快適に過ごせるか、そればかり考えました。


家猫は、飼い主が提供する食事で身体が形成されます。


栄養バランスや、健康を考え、どのフードが良いか、それは1番悩みました。


栄養価が高いとはいえ、猫が気に入ってくれるとは限らない。


高いフードが良いとも限らない。


最初は張り切って、1番高いフードを買いました。


しかし、フードが合わず猫はそれでお腹をこわしてしまったのです。


次にあげたフードは、食いつきが悪く残してしまう。


なかなか試行錯誤し、食いつきも栄養価も良い今のフードに落ち着きました。


他の猫が、喜んで食べるウエットフードは、なかなか食べてくれないので、日々の水分補給が今後の課題。


仔猫はすくすく元気に育ち、今や5キロオーバー。


この子は、食べたものでできている。


その時ふと思いました。


それは人間も同じ事だ、と。

油多めの食事ばかりではコレステロールが高くなるし、野菜ばかりでも栄養は偏る。


人間にも猫と同じ、総合栄養食があれば良いですが、人間は贅沢なので毎日同じ食事では飽きてしまいます。


高い食べ物だから良いかというと、そうでもないし、安くてもダメ。


人間は本当に面倒な生き物。


ただ、人間なら薬と思えば苦い粉も飲めますが、猫にはそれができないです。


不味いと思えば栄養価が高かろうが食べないし、美味いと思えば身体に悪いものも躊躇なく食べる。


だから、愛猫の健康は飼い主の手にかかっています。


私は自分への投資はかなり熟考しますが、愛猫への投資にはまったく迷いがないです。


この子のためにできることはしてあげたいし、快適に暮らしてほしい。


それが飼い主の役目だと思っています。


ペットも大切な家族の一員。


日々この子と共に、自分も慈しんで、健康的に毎日の食事をしていこうと思います。


この子は私の食事に対する考えを変えてくれました。


健康は日々の積み重ね。


どこかが悪くなってからでは遅い。


だから毎日の食事が大事。


ただ、お腹を満たすだけの食事は、健康にも良くないし、なによりつまらない。


楽しく、美味しく、健康に。


それが食事の基本だと私は考えます。

頭のデトックス

ばかばかしいと自分でも思うことですが、大好きな動画を見る時や小説を読む時、あまりに好きすぎてきちんと見なければと気負いすぎて内容が逆に頭に入ってこない時があります。


そんな時私は狭い世界でしか物事を見れなくなっているのだと思う。


例えば海外に行くと、日本とは違う文化に触れて、普段の日常の小さな出来事がなんてちっぽけなんだろうと思えます。


逆に自分が好きなものを純粋に楽しめない時は、多分ココロのSOSのサインです。


そんな時、私は頭をからっぽにします。
何も考えないし、何も見ない。


テレビをつけていても、内容を頭に入れない。


ただひたすらぼーっとする。


一見無駄に思えることが、人生には有益だったりします。


すると頭がすっきりして、色んな出来事がするんと頭に入るようになります。


できれば、嫌なことは頭に入れたくないけど、入ってしまうのが人間なので、そういうことは、日々こうして頭をからっぽにすることでデトックスするのです。


楽しいことや嬉しいことだけで頭の中を満たせれば幸せなのに。


人間は、小さなことが気になる生き物で、嫌なことにかぎって、頭に残ります。


時には頭をからっぽにする時間も私にはとても重要なことなのです。

なんでもない日が幸せ

好きなものを好きだと思える、綺麗なものを綺麗だと思える、怪我なく1日過ごせることがどんなに幸せなことか、気付けて良かったと思います。

体調や、メンタルを崩した時期があって、今思うのは平凡で何でもない日が1番幸せだということ。

周りの言葉や行動が、刃のように刺さる時はいまでもあります。

それは多分感受性がとても強いから。

仕事をしながら、周りの声が聞こえると意識がそちらに向かい、集中できなくなってしまうのは、とても繊細だから。

自分はこうなのだと、分かってあげるだけでも、気の持ちようは全然違います。

平凡な毎日が、生活が、とても愛おしく幸せ。

毎日幸せを積み重ねたら、ずっと幸せ。

幸せの盾があれば小さなことではめげない自分になるかもしれない。

それでも盾を突き破って、鋭い刃が刺さる時もあります。

それでも何度でも立ち上がる。

私にはその力があると、信じたいのです。