進化

多くの人が「普通」だと思って、「普通」にできていることは私には「普通」ではないことが多いです。

「普通」という言葉は、境界線が曖昧なのであまり好きではないのですが、「普通」に代わる言葉が思いつきません。

ここでは、10人中8人ができていることを「普通」と呼びます。

では、10人中残りの2人は「普通」ではないのでしょうか。

でもできない側の2人の中では出来ないことが「普通」なはずなのです。

私も物覚えが悪く、運動神経もないので、周りの人達が1回で覚えることやできることが、何回やってもできない時が多々ありました。

それは私には特別なことではなく、当たり前でした。

できている皆がただ凄かった。

中高生になるにつれ、できないことがコンプレックスになり、プレッシャーとなりました。

「皆できているんだからやらなければ」と考えれば考えるほど、できなくなるのです。

当時はそれで自分を責めていました。

自分はなんてダメなんだ、と。

今は、出来ないことはむしろ個性と捉えています。

特技がある人もない人もいて、運動神経が良い人も悪い人もいる、それは劣等感を持つことではなく、十人十色いる世の中で当たり前のこと。

そこに気付くのに40年かかりました。

今は学校で教えてくれるのでしょうか。

私は学校では学べませんでした。

教えて貰えたとしても、多分自分の中で消化して納得するのに、同じくらい時間がかかった気がします。

だから、多分今の自分は生きてきた中で最高の自分。

歳を重ねて、分かることが沢山あります。

歳を重ねるのは悪いことばかりじゃない。

年を取るのは嫌だなと言う、若い人がいます。

でも、いずれ来る未来の自分を嫌だなんて思ったら自分が可哀想です。

誰でも歳は平等に重ねるものなのですから。

身体の衰えは努力でカバーしましょう。

心は日々成長を続けていきます。

私たちは日々、進化する生き物なのですよ。

電話

定期的に親に電話をするのがなんとなく強制的になっています。

しなくても良い、したくないのに、しなければいけないと思うのです。

一種の強迫観念です。

私の話など一切聞かない母との電話は苦痛でしかありません。

母は私の近況を知りたい訳ではなく、自分の近況を知って欲しいのです。

昔、地元で私が通っていた心療内科の先生が、1度だけ母に会ったことがありました。

一言二言言葉を交わしたでしょうか。

後日先生が、

「あのお母さんだったら〇さん(私のこと)苦労してこられたでしょう?」

と、私に言ったのです。

さすがプロだと思いました。

一言二言で母の性格を見抜いてしまったのです。

そういえば、高校の担任の先生も母の普通では無いところを見抜いていました。

その話をしたら、夫も最初から分かったそうです。

誰から見ても普通では無い母は、私をどれだけ不快にさせているのか知りません。

その母と長年連れ添っている父も、母に洗脳されているのか、普通に見えて普通では無いのかもしれません。

あまり普通という言葉は使いたくありませんが、ここではあえて使いました。

私の両親はあきらかに他の人とは違いますから。

もちろん、十人十色、色々な人がいるのは分かります。

でも、それで被害を受けている娘がいる以上、私の両親は人と違うのです。

今は地元を離れられて安心しています。

地元は大好きだし、帰りたいです。

でも両親の側にはいたくない。

わがままですが、今はこの生活が最高に幸せなのです。

「普通」

最近考えることがあります。


みんなが言う「普通」って何でしょう?


多数の人がそうだから、それが「普通」?


でも、他の人と違う人沢山いますよね。


十人十色で、ひとりひとり個性があります。


結婚して子供を授かり、家を建てる。


これが「普通」の幸せでしょうか?


人によってそうじゃないこと、沢山あります。


親は、「普通」を望みます。


それが1番幸せだと信じて疑わない。


何不自由なく生活していても、幸せとは限らない。


自分のモノサシと、他人のモノサシは違うし、キャパも違う。


「普通」というくくりで、がんじがらめにしたら、「普通」じゃない時、自分は異常だと思ってしまいます。


でもそれは間違い。


だって、それぞれがそれぞれの「普通」を持っているから。


私の「普通」は強迫性障害という病と共存しているということ。


でもそれは、強迫性障害じゃない人にしたら「普通」じゃないですよね。


人と違うことを怖がらないで、人と違う人を特別扱いせずに生活できる世の中になると良いなぁと思います。