雑記

あるネットニュースで「人生をドブに捨てる行為」というテーマがありました。


いつもこんな事で頭にきたりはしないのですが、今回は少し頭に来ました。


覚えている限りこんな内容です。


1.やりたいことよりもするべきことを優先する
2.常に安心できる環境にとどまる
3.周りを気にして行動する
4.いつも同じメンバーといる
5.旅行しない
6.現状維持が大好き
7.休みの日のために生きている


すべて当てはまる私は人生を棒に振っているのでしょうか。


こんなに毎日充実して、楽しくて幸せなのに。


他人の幸せや人生なんて、モノサシで測れるものじゃないです。


ネット社会の世の中で、いちいちこんな事に気を取られてばかりではいられません。


でも、この記事はかなり酷いと思いました。


私の幸せは、私が決めるし、それで人生を棒に振っているなんて考えたこともありません。


こういう事が気になっていちいち腹立たしく感じるから、多分私は強迫性障害なのだと思います。
でも自分は変えられない。


守りの人生で何が悪いの?


私は私らしく生きていきます。

人生の協力者

この前、夫にブログを始めたことを話しました。

興味があったようなので

「見る?」

と聞いてみると

「いや、いい」

とのこと。

最初はあまり興味無いのかなと思ったのですが、

「赤裸々に書いてるんでしょ?」

と言ってきました。

そこで理解しました。

夫は、私だけの居場所を守ってくれたのです。

私が誰の目も気にすることなく、心情を吐露できるのはブログだと分かっての発言でした。

正直夫には見られても全然良いです。

でも気を使ってくれたのが嬉しくて、しばらくは1人でブログは楽しむことにします。

昔は強迫性障害は恥ずかしいことで、誰にも言えませんでした。

それこそ同居していた親にも言えなかったです。

でも今は強力な協力者がいます。

夫に分かってもらえればそれだけで心強いです。

強迫性障害の方の多くは、強迫観念からくる強迫行為を恥ずかしいと思っています。

私がまさにそうです。

だから隠すために必死でした。

でも一緒に暮らす夫にまで隠そうとするのは無理でした。

今は夫の支えがあって生活がとても楽です。

信頼できる協力者を得る事も、病気と付き合っていく方法だと私は思います。

大丈夫な世の中

ストレス社会の中で生き抜いていくには私は弱すぎます。


そのための自己防衛方法として、私はフルタイムではなく扶養内で働くことを決めました。


働き方を選べない方もいる中で有難いと思っています。


それでも、


「なぜフルタイムで働かないの?暇じゃないの?」


「子供がいないならフルタイムで働けるうちは働くべき!」


など、さも私をすべて知っているかのようにいらない助言をする人たちもいます。


正直しんどいですが、笑ってやり過ごしています。


否定も肯定も、説明するにも絶対分かってくれない人種だからです。


親しい人ならきちんと説明をしますし、分かってもらおうとはしますが。


しかし、時に困る質問があります。


それが「大丈夫?」


例えば体調が悪く会社を休んでしまった時の次の日など、親しくもない人に言われると正直困ります。


何を大丈夫と聞いているのか…


体調は正直大丈夫ではないです。


でもそう答えると詳しく説明しなければいけません。


それはしんどいし、別に上っ面の「大丈夫?」に真剣に答えることもないと思うので、大丈夫じゃないけど、何が大丈夫なのか分からないけど「大丈夫です」と答えます。


それがなんだか嘘を付いているみたいで嫌なのです。


かといって、いざこざは嫌なので、ただ平和にやり過ごします。


「大丈夫?」


誰かに言う時は自分も気をつけたいです。

私はわたしと生きていく

本当は周りからの心無い言葉や、行動に一喜一憂するのではなく、めげない強い心を持ちたいです。


でもいつからか、他人の言動に左右されすぎて、疲れてボロボロになってしまう自分がいることに気付きました。


だれも心の病気になんてなりたくないです。


それでも突然やってくる心の不調は、原因も人それぞれだし、病院へ行っても治るか治らないかわかりません。


私は20年強迫性障害を患っていますが、正直完全に治ることはないとおもっています。


今の生活は本当に穏やかで、幸せなものです。


それなのに、強迫性障害の症状は時に色濃く出てきて、私を痛めつけます。


この歳になって、はじめて強迫性障害で人に頼りました。


今までは自分ひとりでどうにかしなければ、周りを巻き込んではいけないと思い込んでいたのです。


頼る決心をさせてくれた夫には感謝してもしきれません。


私の無駄とも思える確認行為に付き合ってくれ、私は本当に苦行から解放されたのです。


時には誰かに頼ることも大事なのだと学びました。


ただ、それは自分が本当に心から信頼を寄せている人に限ります。


誰かれかまわず、自分の症状を言っても理解してくれる人は正直いません。


陰でなにか言われるか、薄っぺらい同情をされるかでしょう。


私は誰にも同情はされたくないです。


病気も含めて、自分の個性だから、それを可哀想なんて親しくもない人に思って欲しくない。


だから、私は周りとは極力距離をとります。


私が覚えた自己防衛のひとつです。


私はひとりで生きている訳ではないですが、薄っぺらい人間関係はいらないと思っています。


冷たいようですが、それが私です。


私はわたしと生きていくのです。

頭のデトックス

ばかばかしいと自分でも思うことですが、大好きな動画を見る時や小説を読む時、あまりに好きすぎてきちんと見なければと気負いすぎて内容が逆に頭に入ってこない時があります。


そんな時私は狭い世界でしか物事を見れなくなっているのだと思う。


例えば海外に行くと、日本とは違う文化に触れて、普段の日常の小さな出来事がなんてちっぽけなんだろうと思えます。


逆に自分が好きなものを純粋に楽しめない時は、多分ココロのSOSのサインです。


そんな時、私は頭をからっぽにします。
何も考えないし、何も見ない。


テレビをつけていても、内容を頭に入れない。


ただひたすらぼーっとする。


一見無駄に思えることが、人生には有益だったりします。


すると頭がすっきりして、色んな出来事がするんと頭に入るようになります。


できれば、嫌なことは頭に入れたくないけど、入ってしまうのが人間なので、そういうことは、日々こうして頭をからっぽにすることでデトックスするのです。


楽しいことや嬉しいことだけで頭の中を満たせれば幸せなのに。


人間は、小さなことが気になる生き物で、嫌なことにかぎって、頭に残ります。


時には頭をからっぽにする時間も私にはとても重要なことなのです。

私なりの護身術

私のことを何も知らない人にかぎって、様々な刃を向けてきます。

結婚したのに、どうして子供を作らないの?

子供がいないなら、フルタイムで働くべきじゃない?

暇じゃないの?

私が散々考えて子供を作らない決断をしたことも、体調を考えて今の扶養内の働き方にしたこともその人は知らないのです。

暇ではなく、頭をからっぽにする時間が必要なこともその人は知らない。

でも説明しても分かってもらえないと思うし、親しくもない人に説明する理由はないので、笑って誤魔化します。

私は今の生活が気に入っているし、自分の体調には合ってます。

幸い、少し前の子宮体ガン検査も問題ありませんでした。

大病を患っている訳では無いけど、毎日が生き辛い。

そんな毎日が今は充実したものに変わりました。

それは主人の助けや、自分なりの強迫性障害との付き合い方を学んだから。

強迫性障害は少し自分が弱るとその弱い部分に容赦なくズケズケ侵入して、弱った自分に追い打ちをかけます。

だから、自分で自分のご機嫌とりが大事。

どうすれば楽しく快適に生活できるか、何か嫌なことがあった時の気持ちのあげ方はなど、自分自身のトリセツを作るのです。

私の場合、嫌なことがあった時はひたすら落ち込みます。

どうしようもないことを知っているから。

するとある日突然、急に悩んでいたことがどうでもよくなる瞬間があるのです。

そうして自分自身との付き合い方を考える。

私なりの護身術です。

今は趣味は生活と言えるほど、充実した生活が楽しいです。

わがまま病?

私は強迫性障害とうつ病を患っています。

うつ病ってただのわがまま病と言う人もいます。

自分は病気だからと、わがままを言いまくる人も確かにいて、私は絶対にそうはなりたくないと、周りの顔色や空気を読むことに必死になりすぎて、結果心が疲れました。

誰からも好かれる人はいないし、陰口を言う人もいます。

陰口を言うような奴の言葉なんて信じるに値しないです。

でも私は弱いからすべての刃を吸収して、身動きが取れなくなる。

周りの人たちは、もう前に進んでいるのに、私は前に進むどころか、重い足枷がついてくる。

でも、私は自分を諦めたくない。

メンタルは強くできないし、世渡り下手だけど、私は私を少しでも好きになってあげなきゃ、かわいそう。

だから、今日も前を向いて生きていく。

人生山あり谷あり

強迫性障害の症状が最近酷いです。

朝出掛ける時の戸締り確認だけで疲れて、汗を異常にかくのです。

仕事の前に疲れてしまう。

そんな時、主人の「辛い時は頼って」という言葉を思い出しました。

本当は自分の恥を晒すようなこと、したくなかったです。

でも、主人に甘えてみることにしました。

戸締りを一緒に確認してもらう。

それだけで不思議と何度も確認しなくなり、生活が楽になりました。

もちろん、1人で出掛ける時もあるので、その時は仕方ないのですが。

出会って10年、結婚して6年。

私は主人にこの前はじめて、私の病状を包み隠さず話しました。

今までは隠したい、恥ずかしい、それだけでした。

でも主人には知って欲しいと思ったのです。

私は強迫性障害になってから、誰にも詳しい症状を話したことはありません。

当時一緒に住んでいた両親すら、私の症状を見ても、ただ否定するだけでした。

私の長くて拙い話しを主人は静かに聞いてくれました。

夫婦は所詮他人、全てを理解してもらおうとは思いません。

でも、理解しようとしてくれることはできます。

主人はそれをしてくれる唯一の人です。

私ももちろん、喜びや悲しみ、すべて理解するため、主人に歩み寄ることは忘れません。

その時主人が「辛い時は頼ってね」と言ってくれたのです。

涙が溢れました。

私には寄り添ってくれる人がいる。

それはなんて幸せなんだろうと…。

私も、主人の唯一無二の存在でありたいと心から願います。

優しい社会

会社の社員さんが急に会社に来なくなり、1ヶ月がたちます。


理由は誰も知らないらしいです。


勿論部長は知っていると思いますが。


ただ、復帰予定の日は無断欠勤したらしく、部長も首を傾げていました。


他にもメンタルをやられ、休職している方がいます。


うちの会社はそんなにブラック企業なのでしょうか。


もしくは現代人のメンタルが繊細すぎるのか…。
私だってメンタルは弱いです。


今のところは自分を奮い立たせ、仕事してますが、たまに理由もなく泣きたくなる時があります。


昔勤めていた会社の方が、「うつは甘え、体の病気じゃないんだから、どうにかなる」と言っていました。


その方には、メンタルが繊細な人の気持ちは分からないのでしょう。


その会社で、私はまさしくメンタルを壊してしまい、会社へ行こうと思っても行けない時がありました。


何日か休んだ時、その方から電話が来て、責められました。


会社に行こうとすると吐きそうになると言っても、一日中吐いてる訳じゃないんだから来なよと。


その方とは一生相容れないと思います。


目に見える病気しか病気と認めない、そんな人には、繊細な人の気持ちが理解できない。


周りに迷惑をかけていると分かっていても、どうしようもない。


逆にそれがプレッシャーになり、余計行けなくなる。


目に見える体の病気は目に見えて治りますが、目に見えない心の病は自分にしか分からなく、治らない時もあります。


私の強迫性障害と同じです。


人と人との関係や仕事は時に難しく、自分の思い通りにならないことが多々あります。


それでもメンタルが繊細な方に優しい社会になるように、願っています。

「普通」

最近考えることがあります。


みんなが言う「普通」って何でしょう?


多数の人がそうだから、それが「普通」?


でも、他の人と違う人沢山いますよね。


十人十色で、ひとりひとり個性があります。


結婚して子供を授かり、家を建てる。


これが「普通」の幸せでしょうか?


人によってそうじゃないこと、沢山あります。


親は、「普通」を望みます。


それが1番幸せだと信じて疑わない。


何不自由なく生活していても、幸せとは限らない。


自分のモノサシと、他人のモノサシは違うし、キャパも違う。


「普通」というくくりで、がんじがらめにしたら、「普通」じゃない時、自分は異常だと思ってしまいます。


でもそれは間違い。


だって、それぞれがそれぞれの「普通」を持っているから。


私の「普通」は強迫性障害という病と共存しているということ。


でもそれは、強迫性障害じゃない人にしたら「普通」じゃないですよね。


人と違うことを怖がらないで、人と違う人を特別扱いせずに生活できる世の中になると良いなぁと思います。