執筆活動

現在執筆活動中です。

Kindleで本を書いてみようと決心しました。

ただ、書けば書くほど

「こんな話を誰が読んでくれるんだろう」

「誰が興味あるんだろう」

と考えてしまっていました。

書きたい、伝えたいことは沢山あるのに、文章が進まなくなりました。

創作活動は大好きです。

それなのに、進まない。

自分の弱さが招いたことです。

書くことは楽しいですし、自分の病気について、同じ悩みを抱えている人に伝えたい気持ちはあります。

でも自分の作業は無駄なのではないかと考えれば考えるほど底なし沼でした。

でも何か発信したい。

それはブログをはじめた時と同じ気持ちです。

誰も見てくれないと思っていたブログも、誰かが見てくれている、それだけで意欲が湧いてきました。

その気持ちを大事にします。

私は私を諦めたくない。

不器用なので、ブログの更新が少し遅くなるかもしれませんが、執筆活動は今後も頑張ります。

時間がかかるかもしれない、誰も見てくれないかもしれない、ただの自己満足かもしれない。

でもそれは私の想像にすぎません。

実際どうなるか分からない。

だから、少しの希望は捨てたくない。

いつか誰かの役にたつ時が来るかもしれない。

それを信じて突き進みます。

他人には無駄に思える作業も自分にはとても重要かもしれない。

決めるのは自分。

自己満足でもやるだけはやる。

後悔しないために。

進化

多くの人が「普通」だと思って、「普通」にできていることは私には「普通」ではないことが多いです。

「普通」という言葉は、境界線が曖昧なのであまり好きではないのですが、「普通」に代わる言葉が思いつきません。

ここでは、10人中8人ができていることを「普通」と呼びます。

では、10人中残りの2人は「普通」ではないのでしょうか。

でもできない側の2人の中では出来ないことが「普通」なはずなのです。

私も物覚えが悪く、運動神経もないので、周りの人達が1回で覚えることやできることが、何回やってもできない時が多々ありました。

それは私には特別なことではなく、当たり前でした。

できている皆がただ凄かった。

中高生になるにつれ、できないことがコンプレックスになり、プレッシャーとなりました。

「皆できているんだからやらなければ」と考えれば考えるほど、できなくなるのです。

当時はそれで自分を責めていました。

自分はなんてダメなんだ、と。

今は、出来ないことはむしろ個性と捉えています。

特技がある人もない人もいて、運動神経が良い人も悪い人もいる、それは劣等感を持つことではなく、十人十色いる世の中で当たり前のこと。

そこに気付くのに40年かかりました。

今は学校で教えてくれるのでしょうか。

私は学校では学べませんでした。

教えて貰えたとしても、多分自分の中で消化して納得するのに、同じくらい時間がかかった気がします。

だから、多分今の自分は生きてきた中で最高の自分。

歳を重ねて、分かることが沢山あります。

歳を重ねるのは悪いことばかりじゃない。

年を取るのは嫌だなと言う、若い人がいます。

でも、いずれ来る未来の自分を嫌だなんて思ったら自分が可哀想です。

誰でも歳は平等に重ねるものなのですから。

身体の衰えは努力でカバーしましょう。

心は日々成長を続けていきます。

私たちは日々、進化する生き物なのですよ。

己自身

ブログを書いている時が落ち着きます。

厳密に言うと、ブログを書いて自分の想いを吐露した時が落ち着くのです。

私は口下手で感情は表に出しません。

でもそう思われたくなくて、社交的を装っていますが。

内気だと思われたくなくて、話はします。

かといって重要な話はしません。

うまく立ち回れていると思っていましたが、そうではないですね。

わかる人にはわかるものです。

メンタルの病気を隠しても、何かこの人おかしいなと思われていると思います。

かといってみんなに堂々と言って、あらぬ陰口に耐えられるメンタルは持ち合わせていません。

自分は面倒だとつくづく思います。

でも人生でいちばん長く付き合うのは他でもない自分。

適度にご機嫌をとって、生きていくしかないです。

だから私は自分のことは極力他人には話しません。

信用出来る夫にしか、今は話していません。

夫にも病気のことを理解してもらおうとは思わないけど、知ってもらいたくて話すだけです。

私はこんな人間だと、大切な人には知って欲しいのです。

誰も私のことをすべて理解する事はできません。

それは悲しいことではなくて当たり前のことです。

私も夫は大好きだけど、すべて理解はできないです。

ただ、極力分かりたいとは思います。

それで良いのです。

故郷の雪

季節がうつろいでいきます。

春夏秋冬。

私は冬が好きです。

それは最近気付きました。

地元の東北にいる時は気付かなかった冬の良さが今はよく分かります。

冬の寒さに耐えた桜が春、美しく咲き誇るように、私たちは厳しい冬を耐えて成長するのです。

名古屋の冬は厳しくはありません。

でも東北の冬よりなんだか辛い気がします。

ただ、冬に向かう秋はたまらなく好きです。

日々涼しく、日々寒くなる時期が、冬の準備期間です。

吐く息が白くなると冬が来たことを実感します。

東北にいる時は雪が嫌いでした。

今は恋しいです。

真っ白な雪原を、誰も踏みしめていない雪の上をさくさく歩くと、まるで地球上には自分しかいないのではないかと錯覚します。

雪が積もると、すべての音を遮断してくれる気がするのです。

静かな静かな空間に、自分の心臓の音が小さく響きます。

厳しくも美しい景色がそこには広がっています。

目を閉じれば故郷の山を思い描くことができます。

どんな山より美しいです。

いつかまた故郷に住むことがあってもなくても私の故郷はひとつです。

だから、ずっと心の中に故郷を思い描くことができるのです。

制約

私の生活には制約が多すぎます。

私はYouTubeが好きでよく見るのですが、中でも丁寧な暮らしのYouTuberさんが好きです。

それに影響され、YouTubeを作る側になりたいと考えた時もありました。

しかし、YouTubeをはじめたくてもはじめられない訳が私にはあります。

そもそもまず、生活に確認が多すぎて見る方をイライラさせてしまうでしょう。

YouTuberさんは、俳優でありカメラマンであり、優秀な編集者でなければいけません。

トップクラスの方々は、やはり動画の構成も上手だと感じます。

それに比べて私には何も無い。

俳優でもカメラマンでも、編集者でも、勉強し、努力でどうにかなるかもしれません。

ただ、何かをはじめたくても強迫性障害が壁になり私の前に立ちはだかります。

強迫性障害が努力でどうにかなるなら、とっくに努力しています。

血のにじむような努力をしても、強迫性障害と別れられるなら、そう、何度考えたでしょう。

病院や薬、カウンセリング、それらはすべて金銭が発生します。

そもそも強迫性障害のために、フルタイムで働けない私が、莫大なお金をかける訳にはいかないのです。

できる努力ならします。

でも出せないものは出せません。

日々慎ましく暮らしている私にとって、治る保証のないカウンセリングにお金はかけられないのです。

病院には薬を貰うため通っていますが、先生にも「薬でどうにかできるのはここまで」と言われました。

カウンセリングについて調べましたが、通うにはなかなかの資金が必要です。

借金をしてまで通うことはできません。

強迫性障害は個性ととらえ、付き合っていくつもりではいます。

でも何かをはじめたい、何かがしたいと思った時、必ず壁になり、私の前に立ちはだかるのです。

壁を取り払う努力をしたくても、自分ではどうしようもできません。

今後私は何かを新たにはじめるのは諦めなければいけないのでしょうか。

日々考えるばかりです。

私は食べることを題材にした小説やドラマが好きです。

食べることは生きることです。

ただ、お腹を膨らますだけだったら、食べ物は正直なんでも良いです。

でも健康を考えたり、食べることを楽しむと、人生は何倍も楽しくなると思うのです。

日々の生活や、家事を楽しめるようになってから、私も毎日が断然楽しくなりました。

そして食事を作ることの奥深さがよく分かるようになりました。

適当に作るのではなく、栄養面や健康面に気を使うことは生きるために必要だと思うのです。

ただ漠然と生きるなら、生きることを楽しまなきゃ損です。

丁寧な生活は、身体やココロにゆとりを与えてくれます。

かといって健康食にばかり気を取られていると、食事を楽しむことを忘れてしまいそうになるので、ゆるゆると健康生活を私は目指しています。

決まり事ばかり作るとがんじがらめになることは、自分がよく知っています。

強迫性障害のマイルールはそれこそ沢山あって、そこにばかり気を取られると他のことが何も手につかなくなります。

外せないマイルールのみに絞って、今は病気と共存中です。

柔軟性を身につけることが、今の目標です。

柔軟に対応できれば、マイルールにも左右されない生き方ができるのではないか、と思うからです。

自分自身で自分をがんじがらめにしないよう、目標は高すぎず、クリア出来る範囲に設定したいです。

目標をクリアして、達成感を味わったらまた次の目標を見つければ良いのです。

そうして少しでも成長できたら良いですね。

祖母と防犯意識

私の祖母は防犯意識の高い人でした。

人混みに行く時は鞄はしっかり押さえておく、自転車のカゴに鞄は入れない、夜道は1人で歩かない、などなど。

田舎だと、鍵を開けっ放しで出かけることも多々あります。

変な人が来ても近所の方が見ていてくれる安心感があるそうです。

しかし祖母は鍵は必ず二重ロックでした。

他人は信用しない、自分の身は自分で守る。

「時間と金のルーズとは付き合うな」

と、小さな頃からよく言い聞かされていました。

今のご時世では当たり前になりつつある防犯意識が、祖母には昔からありました。

小さな頃は素直に聞いていましたが、今思えば考えすぎなこともある気がします。

でも現在その教えは私の中で、しっかり生きています。

日本は安全な国で、諸外国に比べ防犯意識は確かに低い気がします。

でも備えるに越したことはないです。

考えすぎてやりすぎてしまうことも確かにありますが、やらないよりは良い、そう思います。

金のルーズとは付き合うなと言っていた祖母は、自分の兄弟には甘く、弟の借金の保証人になり、踏み倒されました。

借金の返済もせず、遊びあるっているそのおじには正直辟易しています。

でも祖母は騙すより騙される方が良い人でした。

自分の身内には誰より尽くす。

でも祖母が誰かに尽くされたことはありません。

皆に慕われていたことは確かです。

そんな祖母が亡くなって6年。

大人になった今だからこそ祖母に聞きたいことや、教えてもらいたいことが沢山あります。

祖母のことだから、孫の私には肝心なことは話してくれない気がしますが。

でも祖母と2人、お酒が飲みたかった。

今強くそう思います。

波乱万丈の人生を歩んだ祖母の意思を何かしら引き継いでいきたい。

私は祖母の意志とともに生きています。

活字

最近、活字を読みたいのに、読めなくなってしまいました。

集中できないのです。

漫画でも小説でも、昔は大好きだったのに、今はなぜか頭に入ってきません。

なぜなのか、理由もよく分かりません。

元々、テレビ好きではありませんでしたが、最近はテレビも見ません。

興味のある番組がやっていないからです。

唯一今興味があるのがYouTubeです。

プロの作った番組より、素人の作った動画の方が良いのは何だかおかしいような気がしますが。

ただ、あまり何も考えずに見れるのが良いのかもしれません。

映画やドラマも色々考えてしまって頭に入ってこない時があります。

それは些細な出来事や、言葉です。

気になると先に進めません。

自分でもおかしいとは思いますが、何か気になる言葉や出来事があると、調べなければ気がすまなくなり、先を見れなくなるのです。

結果、ストーリーが頭に入らなくなります。

小説も何度も同じ行を読んだりして前に進めない時があります。

漫画もストーリーを何度も見直すため、前に進めません。

結果、本一冊すら読めないのです。

強迫性障害になってから、このようなことになりました。

本すら読めない私は情けないです。

たまには物語の世界に浸りたい時もあるのにできないのです。

物語の世界に入ると、時間を忘れて、現実を忘れることができます。

主人公と一緒に一喜一憂することはもうできないのでしょうか。

でも、他の人ができていることが私にはできないからと言って、嘆いたりはしません。

私にも出来ることがあると信じているからです。

何かと聞かれると困りますが、私にも、私にしか出来ないことがきっとあるはずなんです。

きっと…を絶対に変えるため、私は日々悪戦苦闘します。

大人になる時

過去に後悔がないかと聞かれたら、数え切れないほどあります。

でも、人生をやり直したいかと聞かれたら、それは違います。

今があるのは昔の自分がいたから。

今は最高に幸せだから。

私は他人より大人になるのが遅かったです。

自分の夢も分かりませんでした。

自分が好きなことすら、明確ではなかったのです。

今はすべてが明確で、自分の意思をしっかり持った大人になれました。

いつから人は大人になるのでしょう。

それは、脱皮できた時だと思うのです。

言葉にするのは難しいですが、自分自身を客観的に見ることが出来るようになった時、なんじゃないかと。

自分はなんて小さな存在なんだと思い知った時、人は大人になるのではないでしょうか。

自信に満ち溢れて、自分は何でもできる、と思うことは大事なことです。

でも、世の中を知れば知るほど、自分の無力さに気付いてしまう。

それは、絶望なんかじゃなくて、1歩前進した証拠なんです。

大人になるって、きっと世の中の辛辣さや、不公平さを知ることだけど、でも悪いことばかりじゃない。

私は無力かもしれない、でも何ができる?何がしたい?と自分に問いかけた時、また更に大人になっていくのです。

自分がやりたいことは、やれば良い。

世の中は、自分が思っている以上に冷たくて、辛いけど、でも自分は生きてる。

それだけで、もう大成功なんです。

世間の辛さに打ちひしがれる時があるかもしれない。

でもそれはまた貴方が成長するためのステップに過ぎないのです。

人は1人では生きていけない。

だから、色々な人の言動を吸収して、自分の理想の大人になりましょう。

自分の華を咲かせましょう。

私は私

私は他の人より、音や匂いに敏感な気がします。

職場でも気になる音があると、気が散って仕事に集中できなくなります。

でも、ASMRなどは好きで、川の音、虫の声などよく聴いています。

昔、学生の頃のテスト中、しんと静まり返った教室に響く、鉛筆書きの音が好きでした。

誰の鉛筆の音が筆圧が強くて好みなどあったりして。

昔はそれは変わった趣味だと思っていましたが、ASMRという言葉が世の中に浸透してから、私のような音フェチの方が沢山いることが分かって、嬉しい限りです。

嗅覚に関しても昔より敏感になった気がします。

少し前のコロナ禍では、マスク生活だったのでほとんど匂いは感じませんでした。

しかし、マスク無しの生活だと、様々な匂いが飛び込んできます。

雨の日の電車内の湿った匂い、誰かのスパイシーな香水の匂い、体臭などなど。

マスク無し生活になりたての頃は戸惑いましたが、今は慣れました。

この人柔軟剤の良い香りがするなぁとか、スポーツの後の匂いなど、色々な人がいるのは面白いです。

逆に自分で自分の匂いを感じることはできないので、どんな感じなのか気になります。

また、他人から見た自分の評価や、印象も気になりますね。

でもそれは気にしても仕方の無いことです。

他人の感覚で自分を見ることはできないし、その人が自分をどう思っているかなんて到底分かりっこないですから。

気にしても仕方ない。

それより、自分で自分を認めてあげられるような、自分でありたいです。

自分を誰より知っているのは自分。

長所と短所をしっかり見つけて、自分を労わってあげなきゃ自分が可哀想です。

自分を甘やかすのではなく、認めてあげること、自意識過剰ではなく、自分を好きになってあげること。

それは多分すごく重要なんじゃないかと思うのです。

一生付き合うのは自分。

嫌いな自分より、好きな自分と付き合えた方が人生何倍も楽しいですから。

私は私を認めます。

難しいけど、誰が認めてくれなくても、私が私でいられれば、はなまるなんです。